日本の三大遊郭に数えられる「京都の島原遊郭」。
この遊女街は豊臣秀吉の政策から歴史が始まり、江戸になってから完成しました。
ここではそんな「京都・島原遊郭」誕生までの歴史を、分かりやすく解説します!
秀吉が作った島原の前身「二条柳町」遊女街
江戸時代の島原遊郭の前身は、豊臣秀吉が作った二条柳町の遊女街でした。
本能寺の変で織田信長が殺されたあと、山崎の合戦で明智光秀を討った豊臣秀吉は、洛中を支配下に納めます。
そして京都を「聚楽第」という城をを中心とした城下町へと編成しようとしました。
その際、市中に散在していた公家屋敷、寺院、遊女屋をそれぞれ一か所に集中させるように整理。
その時に遊女屋が集められた場所が、二条柳町です。
(ちなみに公家屋敷が集められた町は「公家(こうげ)町」、寺院が集められた町「寺町」と名付けられました)
この二条柳町は内裏や聚楽第の近くにあり、秀吉は遊女たちを召し抱えたりすることもあったほど密接につながっていました。
二条城が京都の中心になり、遊女街は六条へ移転
しかし豊臣秀吉も亡くなり関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利すると、徳川家康は京都所司代に板倉勝重を任命し京都の再編成を始めます。
政治の中心は聚楽第から二条城へと移され、それに伴って二条柳町は二条城から距離を置かれるように六条へと移転が決まりました。
1602年のことだったと伝えられています。
六条柳町以外での商売禁止
二条柳町から六条へと移転し「六条柳町」と呼ばれるようになった新たな遊女街は、さらなる規制でそれ以外の場所で店を開くことが禁止されました。
言い換えると、六条柳町でしか遊女は商売を出来ないということです。
これは六条柳町を優遇するというより、京の風紀を取り締まるため。
客は夜にしか遊ぶことを許されず、遊女たちの衣装や店の造りは簡素なものに限られました。
また怪しい客が来た場合は、奉行所へ訴え出ることが義務づけられました。
突然の、町はずれへの移転
遊女街が六条柳町へ移転した約40年後。
遊女街はまたも移転することになりました。
今回の移転先は京都の町はずれ、現在の下京区西屋敷です。
この移転は突然決定したものでした。
移転の理由は朝廷や公家たちと遊女屋との癒着?
この突然の移転について、明確な理由は示されていませんが、朝廷や公家たちと遊女たちとの関係が原因ではないかと考えられています。
公家たちはひとりの遊女をめぐって争ったり、禁裏に遊女を召して芸事をさせたりしました。
遊女を踊りの師匠にした女官たちもいたほどで、幕府はこうした風紀の乱れに頭を悩ませていたのです。
そのため六条柳町の遊女街はさらに町はずれへと移転され、砦のように囲いまで築かれました。
「島原」と名付けられた理由
この砦のように作られた新しい遊女街は、「島原」と呼ばれるようになりました。
この名前の由来は幾つかあり
街のつくりがまるで「島原の乱」で一揆勢が立てこもった島原城のようだったから
急な移転がまるで島原の乱のように騒がしかったから
という「島原の乱」に因んだという説と
「桃源郷」の「とうげん」という言葉に「島(とう)原(げん)」という文字をあてた
という説があります。
周囲と完全に隔離された「島原遊郭」の厳しい掟
砦のような形で築かれた島原遊郭は、形だけでなく人々の行動もかつてないほど厳重に取り締まられました。
遊女たちは京の市中へ外出することを禁止された他、
衣類は絹紬より上等なものを着てはいけない
乗り物にのってはいけない
島原内でのケンカは両者とも死罪
などの決まりがありました。
しかし最もひどい決まりは、違反した遊女を通報した者に、「その遊女を褒美としてあたえる」というもの。
遊女をもののように扱った島原内のルールでした。