軍師として広く知られる黒田官兵衛の息子「黒田長政」

彼は二世ながら自分自身の才能で戦国時代を生き抜き、最後は部下に尊敬される藩主となります。

この記事では、七光りに頼らない黒田長政の生涯について、分かりやすくまとめてみました!

秀吉への忠誠心を育んだ幼少期

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黒田長政は、幼名を松寿丸といい、姫路城で生まれました。

父の黒田官兵衛(孝高・如水)は織田家の家臣・羽柴秀吉に仕えており、松寿丸は9才のころから秀吉のもとで人質として育てられるようになります。

ただし人質とはいえ、秀吉と妻のおねは我が子のように長政を育てたといいます。

のちに長政は豊臣秀吉への深い忠誠心で知られるようになりますが、その忠誠心はこの時期に育まれたのでしょう。

命を救った秀吉のため、父とは違う道で貢献

さらに長政の秀吉への忠誠を決定的にした、ある出来事がありました。

長政が秀吉の人質として暮らしていたある時、父の官兵衛が、信長へ謀反を起こした武将・荒木村重に対する調略活動を行うことに。

しかし一年もの間消息をたったことから、信長は官兵衛の謀反を疑い、人質の長政を殺すよう秀吉に命じます。

ところが秀吉は、官兵衛の無事と忠誠心を信じ、長政を匿ったうえ、捕らえられていた官兵衛をも見つけ救出したのです。

それから長政は、軍師の父とは違う「勇猛さ」の面で、秀吉を支えていくことになります。

九州平定や、激しかった朝鮮出兵でも、活躍するのです。

秀吉の死後、豊臣家から離反する長政・・なぜ?

自分の命と父の命を救ってくれた豊臣秀吉に忠誠をつくし、朝鮮出兵でも勇敢に戦った長政。

ところが秀吉が亡くなると、実は長政はあっさりと徳川方へ寝返ってしまいます。

それはなぜだったのでしょうか?

その理由はおそらく、秀吉の遺した子「秀頼」の出生の秘密と関係があります。

「秀頼は秀吉の子ではない」

という噂があるのですが、おそらくその内情をよく知っていたのでしょう。

妻とも離縁し、徳川家康の養女を新しい妻に迎えての、完璧な離反でした。

関ケ原後、福岡藩主となり作った「天狗にならないための仕組み」

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徳川方へ寝返った長政は、関ケ原の合戦後に筑前国を与えられました。

そしてそこを「福岡藩」と名付け、初代藩主に。

そこで為政者としての才能を発揮していきます。

特筆すべきは「異見会」という、部下から忌憚ない意見を吸い上げるための会をつくったことです。

「この回で述べられたことには遺恨を残さない」

「腹立たずの会」

として、どんなに長政に対する厳しい意見が出たとしても、開催を続けたと言います。

偉大な父を持ち、さらに組織のトップに立った長政は、自ら自分を律するための仕組みを作ったのです。

重圧から解放されたような・・長政の辞世の句

こうして自らを律し続けた長政は、最後にこのような辞世の句を遺しています。

此の程は 浮世のた旅に 迷ひ来て 今こそかへれ 安楽の空

ようやく重圧から解き放たれて、心が安らかになるような・・

それまで偉大な父や重い立場に恥ずかしく無いよう、精いっぱい生きてきたのでしょう。

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