豊臣秀吉の甥「豊臣秀次」は、秀吉の跡継ぎ候補として養子になりながらも、秀吉への謀反の罪で命を絶った悲劇の人物です。
そんな秀次は「殺生関白」という異名を持つ史上最悪の暴君として知られていますが、真実の姿は?
この記事では豊臣秀次にまつわる残虐・異常なエピソードをお伝えするとともに、その真偽について考えてみたいと思います!
豊臣秀次のプロフィール
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豊臣秀次は、1568年に、秀吉の姉・日秀(にっしゅう)の息子として生まれました。
秀吉の嫡男・鶴丸が亡くなったあと秀吉の養子となり、後継者として京の聚楽第で政務を執り行うように。
ところが1593年に淀殿が秀吉の子・拾丸(後の豊臣秀頼)を生むと、秀次は徐々に冷遇されるようになっていきます。
そして最後には秀次は謀反・残虐行為・近親相姦の罪で切腹し、近親者は秀吉によって処刑されました。
秀次はなぜ「殺生関白」と呼ばれるようになったのか
秀次は「殺生関白」と呼ばれていますが、それは秀次がとったと言われているあまりに残虐な行為が原因です。
一説によると、拾丸が生まれたころから「御機嫌暴く(あらく)」なった秀次は、次のような残虐かつ異常な行動をみせるようになっていきます。
砂を食べさせて拷問し、最後は腕を切り落とす
江戸初期に成立した歴史物語「聚楽物語」によると、秀次は人を斬ることを好み、罪のない人々を殺めたといいます。
ある時は、料理人に庭の砂をかみ砕かせ、その料理人の口中が切れ歯が砕け散ると、今度は左右の腕を切り落として
「これで生きる甲斐も無くなっただろう」
と言い放ったと言います。
毎日一人ずつ、人間狩り
さらには毎日京や大坂の町に出かけては、目についた人々を捕らえて斬り殺すようになったと言います。
目をつけられるのは大抵、太り気味の男性や妊婦だったと伝えられています。
実の娘と近親相姦
また秀次の異常性は残虐な行為にとどまらなかったようです。
性的にも異常な行動が見られ、秀吉がもっとも咎めたのは
秀次と実の娘が近親相姦の関係にあったこと
だと言われています。
秀吉は秀次だけでなく側室など近親のものたちも一緒に処刑しましたが、彼らの遺体を埋めた塚を「畜生塚」と呼んだそう。
それほどまでに秀次の行為を忌み嫌っていたようです。
秀次の悪評は秀吉による印象操作の結果?
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このように、あまりに残虐かつ異常な豊臣秀次の行状ですが、近年の歴史研究ではこれらの印象は作られたものであると考えられつつあります。
本来の秀次は有能な武将で、美術品や和歌を好む文化人だったよう。
そんな秀次の存在を、拾丸の誕生で秀吉が疎ましく思い、徹底的に排除しようとしたのでしょうか。
秀次の近親相姦の疑いも、実は娘は秀次の子では無く、血縁関係は無かったと考えられています。
この「印象操作」説が本当なら・・
一時でも養子に迎え後継者として育てていた人物を、近親者まで無残に殺し徹底的に貶めた豊臣秀吉の行動。
こちらの方にこそ、大変な残虐性を感じます。
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