細川忠興は、戦国一の美女・細川ガラシャの夫として知られる人物ですが、どのような人物だったのでしょうか?

この記事では細川忠興について、簡単にまとめてみました!

細川忠興の生涯

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細川忠興は、1563年に細川幽斎の嫡男として産まれました。

父・幽斎は武芸に優れただけでなく「古今和歌集」の秘伝を継承するほどの文化人。

それを引き継いで、忠興も文武に優れた武将として成長しました。

妻は明智光秀の娘・玉

忠興は美人の妻「細川ガラシャ」の夫として有名ですが、ガラシャはもともとは「玉」と言い、明智光秀の娘でした。

忠興の父の幽斎が光秀の親友であったことから、この縁談が実現したと言われています。

忠興と玉は初め仲睦まじい夫婦だったようですが、玉の父の明智光秀が本能寺の変を起こしたころから、2人の関係が変わってきたようです。

義理の父の謀反

明智光秀が謀反を起こしたことは、当然ながら忠興にも影響を及ぼしました。

父の幽斎は光秀と親友でありながら、謀反後は親交を断絶。

忠興へも玉との離縁を命じます。

しかし忠興はそれには従わず、玉を一時幽閉することでほとぼりが冷めるのを待つという対応に出ました。

玉はその幽閉の間に、幽閉先の娘・清原マリアの影響でキリシタンになっています。

忠興のサディスティックな愛情

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このように、文武に優れて妻へ愛した忠興。

一方で妻を愛しすぎるあまりに取られた大変サディスティックな行動でも知られています。

妻をキリシタンにした女性の鼻をそぎ落とす

忠興の妻・ガラシャは幽閉中にキリシタンに改宗しますが、忠興はそれに激怒したと言われています。

そして怒りのあまり、幽閉先の侍女たちの鼻をそぎ落としました。

この行いが原因で、玉(ガラシャ)の心は忠興から離れ、離縁を願うようになったと言います。

しかし玉の心が離れたことで、忠興の玉への執着心は一層激しくなりました。

玉にみとれた庭師を惨殺

またある時は、屋敷で庭仕事をしていた庭師が玉にみとれたとして、忠興の逆鱗に触れ惨殺されました。

玉がとりなした家臣を虐殺

またまたある時は。不調法をした家臣を玉がとりなそうとすると更に忠興は激高。

家臣を斬り殺し、玉の小袖で刀の血をぬぐったり、手討ちにした家臣の首を切り玉の部屋に飾ったりといった、異常な行動を見せています。

しかし玉も並みの女性とは違い、血をぬぐった小袖を堂々と着たり、生首のある部屋で平然と眠ったりとし、逆に忠興を慌てさせたようです。

徳川方についた忠興。光成に囲まれ、玉は自害

こうして異常な愛情で玉を自分のものにし続けた忠興。

しかし関ケ原の合戦で家康方についたとき、屋敷が石田三成に囲まれ、玉は自害してこの世を去ります。

この潔い死は、「武将の妻の鑑」として評価される一方で、「それほどまでに忠興に嫌気が指していたのではないか」と思わざるを得ません。

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