山中鹿介とは、毛利氏に滅ぼされた主家の尼子氏再興のため、力を尽くして死んだ戦国時代の武将です。

実に9年ものあいだ、諦めずに主家への忠誠を誓い続けたのですが、その力はどこから来たのでしょうか?

その陰には、「日本の孟母」とも呼ばれる鹿介の母の存在がありました。

山中鹿介のプロフィール

Sponsored Link

山中鹿介は出生年などは明らかになっていませんが、戦国時代に山陰地方で活躍した武将として知られています。

主君は出雲守護代をつとめた尼子氏でした。

その尼子氏は、1562年から1567年の毛利氏の侵攻により滅亡。

その後9年間にわたり、鹿介は牢人となりながら、尼子十勇士の筆頭として尼子氏の再興のために仲間と戦い続けることになりました。

鹿介の名言

そんな山中鹿介は、こんな名言を遺しています。

「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」

これは鹿介が毎夜月に向かって祈ったと言われている言葉で、主家再興のためのあらゆる苦難を乗り越えるために、より強くなるべく唱えたと言われています。

鹿介を稀代の忠臣に育てた孟母・なみ

Sponsored Link

鹿介がそのような忠臣に育ったのは、母のなみの教育のたまものだと言われています。

なみは息子を主家に忠実に使える武将にすべく、徹底的に教育します。

そんななみの教えは、私なりにまとめると次のようなものでした。

なみの教え

父の霊をうやまいなさい。

なみは、父の命日を忘れた鹿介を、雪の中何時間も正座させたと言われています。

仲間を大切にしなさい。

鹿介に諭すだけでなく、なみ自身も、自分はどんなに貧しくても鹿介と仲間のために十分なご馳走をふるまいました。

どんなに辛い状況でもやるべきことに力を尽くしなさい。

鹿介が学問をするとき、どんなに寒くても火鉢を与えませんでした。

まず最初に「父の霊を敬う」は、目上の人間を敬う心を育てるために。

そして「仲間を大切に」は、自分一人では達成できない大きなことを成し遂げるために。

「どんなに辛い状況でも」は、言うまでもないですね。

まるでなみは、将来の鹿介の身に訪れる事態を予測していたかのようです。

そんななみは「日本の孟母(孟子を育てた賢い母)」として呼ばれています。

Sponsored Link