古事記や日本書紀によると、初代天皇は「神武(じんむ)天皇」。
この神武天皇は、太陽の女神「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」の子孫だと言われています。
では神である天照大御神の子孫が、いかにして地上に降りて人間を治めるようになったのでしょうか?
この記事では、天照大御神の子孫が神武天皇と呼ばれるようになるまでの神話を分かりやすく説明します。
国生みの神「いざなぎ」から生まれた太陽の女神「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」
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(以下の神話は、古事記をもとに説明を進めます。)
天照大御神は、日本の国土を生んだ男性神「伊邪那岐(いざなぎ)」から産まれました。
一般的に「太陽の女神」と言われ、稲を作りその収穫を祝う祭祀を行う役割を持ちます。
天照大御神は「天津神(あまつかみ)」と呼ばれ、「高天原(たかまがはら)」という天上の世界に住んでいました・・
一方で、天照の父いざなぎがいざなみと共に生んだ地上の国。
これは「葦原中国(あしはらのなかつくに)」(日本列島のこと)と呼ばれ、そこは国津神(くにつかみ)と呼ばれる神々が治めていました。
天照は、もともとは両親が生んだ葦原中国を、自分たち天津神が治めるべきだと思うようになります。
そこで、高天原の神々を葦原中国に派遣して、国津神たちから「国を譲ってもらおう」と考えました。
国津神「大国主(おおくにぬし)」から天照大御神への国譲り
当時、葦原中国を治めていたのは大国主(おおくにぬし)と呼ばれる神でした。
政治の中心地は出雲です。
天照は何度も神々を使者に出しますが、大国主はなかなかとりあおうとしません。
天照から使いに出された天照の息子・アメノホヒも、大国主を説得できず逆に出雲に引き入れられてしまいます。
しかし天照が建御雷神(たけみかづち)という雷神を派遣すると、ようやく大国主も受け入れ、国譲りを決意しました。
大国主はその時、出雲に神殿を創ることを約束させ、これがいまでも残る「出雲大社」の原型になっています。
(また天照の息子アメノホヒの子は、出雲大社を守る出雲国造となり、現在の出雲宮司の家系につながっています・・
つい先日、高円宮典子さまが皇室から出雲宮司の千家国麿さんへ嫁がれましたが、遠い遠い天照の子孫が現代で結ばれた!ということです。)
天照の孫「邇邇芸命(ににぎのみこと)」日本の地に降臨
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こうして葦原中国を大国主から譲り受けた天照は、自分の孫「邇邇芸命(ににぎのみこと)」を地上に派遣します。
この出来事が「天孫降臨(てんそんこうりん)」と呼ばれます。
ニニギノミコトが降り立ったのは今の九州。
宮崎県の高千穂です。
またこの時に天照から渡された
八咫鏡(やたのかがみ)
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
草那芸之大刀(くさなぎのたち)
を三種の神器と言います。
ニニギノミコトはこの地で木花之開耶(このはなのさくや)姫と結婚します。
この時、姉イワナガヒメを一緒に娶るように頼まれましたが、ニニギはそれを断ったので、
ニニギノミコトの子孫は「必ず花のように散る=人間のように寿命が限られる」
ようになったといいます。
ニニギノミコトの子孫はしばらくこの地を治めたのち、本州を平定しに向かいます。
(木花之開耶(このはなのさくや)姫は、富士山に祀られています)
大和の平定と初代天皇の即位
ニニギノミコトから三代ののち。
(たったの三代ですが、179万2477年の後(!?)だと言われています)
ニニギの子孫の神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)は、兄の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)と共に大和地方を平定に向かいます。
途中、兄の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)は戦いで命を落としますが、
神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)は高天原の神々の助けを受けて大和の平定に成功します。
そして紀元前660年2月11日、都とした橿原宮(いまの奈良県)で名前を
始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
に変えて初代天皇に即位しました。
亡くなってからは元号で「神武天皇」と呼ばれます。
(「神武」や「明治」「昭和」のような元号をつけて呼ぶ呼び方は、天皇が退位してからになります)
神武天皇はニニギノミコトのひ孫。
天照は神武天皇にとって、ひいひいひいおばあさんになります。
大国主から国譲りを受けて長い年月ののち、ようやく現在の日本まで続く王朝が誕生しました。
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