出雲大社と伊勢神宮と言えば「由緒ある神社」というイメージ。
でもその成り立ちについては、意外と知らないままだったりしますよね。
ここでは、
出雲大社と伊勢神宮の成り立ち
伊勢神宮に深く関わりがある三種の神器の伝説
について分かりやすく説明します!
日本最古の神社「出雲大社」の成立
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むかしむかし「大国主神(おおくにぬしのかみ)」という神が、出雲を中心に日本を治めていました。
でも天上の世界にいる神様「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」は、大国主から日本を返してもらいたくてたまりません。
それは、日本を生んだのが天照の両親だったから。
天照は「本当の家族で日本を育てるべき」だと考えていたのです。
でも日本の育ての親の大国主も、簡単には了解できません。
天照が送る使者を、のらりくらりかわしておりました。
大国主は実にやり手だったのです。
その使者のうちの一人には天照の息子(アメノホヒ)もいましたが・・
アメノホヒでさえ大国主に心酔し、地上で暮らすようになっていました。
ところが天照も、いつまでたってもあきらめない。
大国主は、とうとう日本を手放す決意をしました。
でもその代わりにと天照にお願いしたのが「出雲に大きな神殿を作る」ということ。
その神殿で、自分を祀ってほしいというのです。
天照はその願いを聞き入れ、出雲に神殿を作ります。
これが「出雲大社」となりました。
そして地上に降りていた天照の息子アメノホヒの息子がその神殿を管理することに。
その子孫は現代にいたるまで、代々出雲大社の宮司を務めているということです。
天皇の祖先・天照大御神を祀る「伊勢神宮」と三種の神器
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伊勢神宮「内宮」「外宮」の成り立ち
時代は出雲大社の成立から何万年も後のこと。
今から2000年ほど前のことです。
日本は地上に降りた天照大御神の孫の子孫が治めるようになっていました。
今の天皇家に続く神々です。
彼らは代々「三種の神器」と呼ばれるものを継承していました。
天照の孫が地上に降り立つときに、天照から授かったものです。
その中の一つ「八咫鏡(やたかがみ)」は、天照の精霊が込められたものでした。
さて、崇神天皇の時代。
国中に疫病が流行りだします。
崇神天皇は神様である天照大御神を自分と同じ住まいにしていることが原因と考え、天照をどこか良い場所に祀ることにします。
そして色々な地を探し歩いた中から選ばれたのが、今の伊勢神宮のあるところでした。
そこに皇大神宮(こうたいじんぐう)という神社を作り、天照大御神はそこで祀られることになります。
今では一般に、伊勢神宮内宮と呼ばれています。
またご神体として、八咫鏡が奉納されることになりました。
・・しかしそれから約500年後の雄略天皇の時代。
天照大御神が雄略天皇の夢に現れ、「自分だけでは食事が出来ない」と言います。
そこで天照大御神が祀られている皇大神宮(こうたいじんぐう)の近くに、食を司る「豊受大御神 (とようけのおおみかみ)」を祀る神社「豊受大神宮(とようけだいじんぐう)」を作ります。
こちらは一般的に、内宮に対して「外宮」と呼ばれるようになりました。
八咫鏡以外の「三種の神器」の行方
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さて、伊勢神宮内宮に奉納された「八咫鏡」以外の神器はどうなったのでしょうか?
「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」
「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」
それぞれの行方を追ってみました。
「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」の行方
「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は、現在でも皇居に所蔵してあると言われています。
ただし、天皇陛下であってもそれを実際に目にしたことはないのだとか。
言い伝えによれば、平安時代の冷泉天皇が中身を見ようとしたことがあるそうなのですが・・
白い煙が湧き出て恐れおののき、見ることを中断したのだと言います。
「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」の行方
三種の神器の最後の一つ「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」は、神話の中でヤマトタケルが東方征伐に使ったとされています。
しかし無事に東征を終えた帰り道、熱田(今の愛知県)で恋人のミヤズヒメに剣を預けたまま、ヤマトタケルは伊吹山の荒神に殺されます。
その後、ミヤズヒメはヤマトタケルと「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を熱田の地に祀りました。
これが今の熱田神宮です。
「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」はその後も熱田神宮に祀られていましたが、天智天皇の時代に盗難に遭い、一時宮中に保存されるようになります。
しかし剣のたたりで天武天皇が病になり、熱田神宮に返されました。
熱田神宮はその後火事にあったり空襲の危機にさらされますが、剣は今でも無事に神宮内に奉納されているといいます。
ただし「剣を盗み見たものが祟られた」という事件が過去にあり、誰もそれを目で見たものはいません。