「宇治の橋姫」はさまざまな創作の中で

嫉妬に狂い鬼女になった女性

として描かれていますが、もともとは水の流れを護る女神「瀬織津姫」でした。

では女神の姿はどこへ行き、嫉妬に狂う姿はなぜ、どこから来たのでしょうか?

時代とともに変わっていく、「宇治の橋姫」伝説についてまとめてみました。

「宇治の橋姫」が嫉妬に狂う女として描かれるようになったのは鎌倉時代

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嫉妬に狂う鬼女としての宇治の橋姫は、鎌倉時代の後期ごろに書かれた「源平盛衰記」から登場します。

ここでは橋姫はある公卿の娘で、恨みに思っている女性を呪い殺すために宇治川に21日間浸り、鬼女に変化します。

そうして呪う女性だけでなく、見境なしに人を殺し歩くようになりますが、渡辺綱という侍に腕を斬られます。

さらにこの物語を発展させた能「鉄輪(かなわ)」では、橋姫は娘ではなく後妻に夫を奪われた前妻として登場。

同じように元夫と新しい妻を呪い殺そうとする橋姫は、嫉妬や復讐心に狂った顔を見せます。

平安時代の橋姫は「夫を待つ健気な妻」

このように恐ろしい側面ばかりが目立つ、鎌倉時代の「宇治の橋姫」。

ところが時代を少しさかのぼり平安時代を見てみると、橋姫は恐ろしい鬼女としてではなく夫を待つ健気な女性として捉えられています。

さむしろに衣かたしき今宵もや

我をまつらん宇治の橋姫

これは古今和歌集におさめられている歌の一つですが、橋姫は男性にとって愛らしい姿で描かれているのです。

このような描写は源氏物語・宇治十帖にも見られ、宇治に住む女性を愛しながらも失ってしまった源氏の子・薫君がその女性と橋姫の姿を重ねています。

女神の側面を残していた奈良時代の風土記

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このように平安時代と鎌倉時代では橋姫の描写に大きな違いがありましたが、橋姫は「人間」として描かれていました。

しかしさらに時代をさかのぼり奈良時代では、宇治の橋姫は人ではなく「女神」として文献に登場します。

「橋姫は懐妊して和布(わかめ)が食べたくなった。夫が和布をとりに海へ行ったところ、龍神にさらわれてしまった。橋姫が会いに行きはじめは連れ帰ることが出来なかったが、その後帰ってきて無事に暮らせるようになった。」

平安時代から鎌倉時代は、女性の神性が否定された時代

もともとは瀬織津姫と同一視される女神だった宇治の橋姫。

ところが上記のように時代とともに女神としての神聖さが薄れ、邪念にあふれた存在として扱われるようになっていきました。

おそらくこの背景には、仏教の穢れの概念を女性におしつけたために起こった、女性の地位の低下が考えられます。

宇治の橋姫だけでなく多くの女神がこの時代に零落させられ、力を失っていったのです。

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