学問の神様として知られる菅原道真は、一方で日本三大怨霊の一人としても知られています。

(日本三大怨霊とは、菅原道真のほか崇徳上皇、平将門のことを指す)

その怨霊による祟りは、平安の都に多くの災厄をもたらし、多数の死者を出したほど。

ではなぜ、菅原道真はそれほどまでの怨念を遺すことになったのでしょうか?

そしてその怨念によりもたらされた祟りとは?

陰謀により失脚・・残された無念が怨霊に

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菅原道真は、代々学者の家系に生まれました。

宇多天皇の治世に重用され、家格を超えて朝廷の要職を任されるようになった道真は、当然のことながら周囲の妬みを買うことになります。

醍醐天皇の時代に代わり右大臣となった道真は、ともに左大臣を務めることになった藤原時平の陰謀によって無実の罪をきせられ、大宰府に流されてしまいます。

時平は、道真が「娘婿の斎世親王を天皇にしようとしている」と、醍醐天皇に密告したのです。

901年のことでした。

こうして大宰府に流された菅原道真は、その2年後に、やり場のない怒りを抱えながらその地で憤死することになります。

そしてその怒りや無念の気持ちが、怨霊になり都に災厄をもたらすことになったと、信じられているのです。

道真の死から5年後・・祟りが起こり始める

都の人々が「菅原道真の祟り」と呼ぶ出来事は、道真の死から5年後に起こり始めます。

まず道真の失脚に関して藤原時平に協力した藤原菅根という人物が急死。

その翌年には時平自身が39歳という若さで急死します。

その後は毎年のように、飢饉・干ばつ・暴風雨・疫病が都を襲ったほか、醍醐天皇と時平の妹との間に生まれた保明親王も急死しました。

道真を供養するも、祟りはおさまることを知らない

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相次ぐ菅原道真の祟りを恐れた醍醐天皇は道真に右大臣の位を復しますが、その怨霊はとどまることを知りません。

先に急死した保明親王の子もまた急死。

さらに悪いことに、御所を落雷が襲い、多くの官僚が体を焼かれ命を落としたのです。

その後、都の人々は北野の森に菅原道真を祀る北野天満宮を建てたのですが、道真の怨霊はおさまったのでしょうか。

祟りをおそれる心は、人々の罪悪感の現れ?怨念の正体は・・

上記の出来事を、人々は「菅原道真の祟りだ」と恐れましたが、これらの災厄は本当に道真によってもたらされたのでしょうか?

当たり前のことですが、これらの出来事と「道真の怨念」との因果関係を証明しようとしても、不可能です。

それでもやはり様々な災厄を「道真の怨念のせいだ」と考えたのは・・

そして恐れるあまりはく奪した位まで戻してしまったのは・・

明らかに「道真が冤罪により不遇の目に遭わされた」ということが分かっていたからだと感じます。

そもそも「祟り」という言葉は「ある行為の報いとして受ける災難」を意味します。

ということはつまり、「報いを受けるべき何か」を人々がしたことを指すのです。

都の人々が恐れた道真の怨念・・でもそれは、元はと言えば彼らが道真に向けた悪意の裏返しだったのではないでしょうか。

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