江戸時代の女郎たちが避けることが出来ない「望まない妊娠」という問題。

この時代、人工妊娠中絶は可能だったのでしょうか?

また出産した場合、その子はどうなってしまったのでしょうか。

調べてみました。

女郎たちの避妊方法

女郎たちは望まない妊娠を避けるために、古くから伝えられてきた避妊方法をとっていたようです。

その方法とは、「底根の法」と呼ばれるもの。

この方法は膣に丸めた紙を挿入するといったものでした。

ところが現代の知識で推測できるように、この方法では避妊することが出来ません。

つまり女郎たちの妊娠は運任せ。

望まない妊娠をしてしまう場合は多くあったのです。

江戸時代の人工妊娠中絶

日本で中絶がいつごろから行われているのかは定かではありません。

しかし江戸時代のころには、産婆や堕胎専門の医者による民間の人工妊娠中絶術が行われていたことは確かになっています。

方法は、子宮収縮作用のある植物を飲用したり、子宮口から針などとがったものを刺したり、といったものがありました。

自然流産のための壮絶な行為も

一方、産婆や医者による堕胎には高額な費用が必要だったため、遊女たちが自分でなんとかするしか無いこともありました。

彼女たちは「自然に」流産するために、わざと真冬の川の水につかったり、水銀を飲んだりいった、危険な行為をするほど追い詰められました。

子供を産むという選択

それでも必ずしも中絶や流産が選ばれたわけではなく、子供を産み育てるという選択をした遊女たちもいます。

吉原などの遊郭では遊郭ぐるみで子供を育て、成長すれば女の子なら遊女になり、男の子でも吉原の中で出来る仕事を仕込まれました。

一番の悲劇は、外国人の子を身ごもった時?

ところが遊女たちが身ごもったのが日本人の子供ではなく異国人の子供だった場合、多くが「不吉な存在」として生後すぐに命を絶たれたと言います。

オランダ商館の医師、カール・フォン・ツンベルグによる「日本紀行」では、このように書かれています。

ヨーロッパ人はこの国に来て、すべて自分の国の先見及び宗教をふり捨てて仕舞って、日本式にするのに慣れてしまう。

遊女屋に出入りすることを別に気兼ねなどしない。

この不法な関係から結ばれた不幸な実は、男の子の場合は特に厳重に禁じられているので、母体から生まれ出るや直ちに殺されてしまうのだ。

日本に訪れた異国人たちも、奔放な日本の性文化を楽しむだけ楽しんだものの、その後の遊女の行く末については深く考えなかったようです。