日本初の帰国子女であり、現在の津田塾大学の創立者・津田梅子の生涯を3回にわたってお伝えする、この記事は第3回目。

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津田梅子の生涯・生い立ち編「実は徳川家とは親戚?実家は農家!?」

津田梅子の生涯・留学編「たった6才の少女が10年!アメリカで勉強し抜く」

11年の留学生活を終えて日本に戻ってきた梅子に、待ち受けていたのは・・

帰国後、待ち受けていた「男尊女卑」「日本語」の壁

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6才でアメリカへ留学した梅子は、高校を卒業し帰国すると17才になっていました。

梅子たちが留学した時の使命は「女子教育の発展に貢献」すること。

当然、梅子を含める3人の帰国留学生たちも、その志を胸に帰国しますが・・

日本に帰ってすぐに壁にぶつかることになります。

それは、日本特有の「男尊女卑」の風土

そして幼くして渡米してしまったための、梅子たち自身の「日本語が拙い」という問題でした。

そのため、帰国留学生たちは別々の道に進むことになります。

留学生の一人、永井繁子は留学中に出会った海軍大尉と結婚。

もう一人の留学生、山川捨松は陸軍卿で西郷隆盛の従兄弟・大山巌の後妻になりました。

捨松は社会で自分の能力を活かすことが出来ないことに気付き、社交界の場から日本の風潮を変えていくことに挑戦します。

そして梅子はと言えば、自分の拙い日本語でも雇ってもらえる学校を探し、後の青山女学院の前身である「海岸女学校」で教鞭をとり始めました。

ところがその仕事も、2カ月ほどで辞めてしまいます。

伊藤博文との再会で、女子教育発展への活路を見出す梅子

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将来に不安を抱えながら過ごす梅子は、ある社交パーティで伊藤博文に再会します。

伊藤博文は、梅子が留学生として参加した「岩倉使節団」で副使を務めた人物でした。

伊藤は梅子が帰国後困っているのを知り、「桃よう女塾(とうようじょじゅく・後の実践女子大学)」での英語講師の仕事を紹介します。

また、空いた時間には日本語を教えてもらうように手配もしてくれました。

この仕事は梅子の家の都合で辞めざるを得なくなりますが、その後も伊藤は新たに開校した華族女学校の教授補として梅子を推薦します。

この華族女学校での経験が刺激となり、梅子は「より良い子女教育環境作り」への意欲を燃やしていくことになります。

再度の留学と、女子英学塾創立

華族女学校で働いていた梅子は、子女教育の発展のためにもっと見聞を広めたいと望むようになります。

この願いを政府は聞き入れ、アメリカの大学へ留学を許されました。

梅子は3年間をアメリカの大学で過ごし、生物学や教育教授法を学びます。

帰国した梅子は、アメリカの大学の自由な校風に触れた影響で

「政府の指示に従う教育ではなく、自由な風土のもとで教育したい」

と考えるようになりました。

そこで華族女学校の仕事のかたわら、私塾開塾に向けて準備を始めます。

このころには東京女子高等師範学校の教授も兼ねていたため多忙でしたが、英語教育者として訓練しながら機会をうかがいました。

そして梅子が35才の1900年、梅子はついに華族女学校と東京女子高等師範学校の職を辞職し、東京の麹町に「女子英学塾」を創立します。

梅子の死後、女子英学塾は「津田英学塾」に改称

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梅子はそれから29年後、脳出血のためにこの世を去ります。

それから3年後の1932年、女子英学塾は東京郊外の小平に移転しますが、その時に祝辞を述べたのは、梅子の従兄弟で徳川慶喜の後を継いだ徳川家達でした。

家達は梅子を、

「時代を先立って未来を予知し、将来を築く新しい女性を育てた先駆者」

と讃えました。

そしてその翌年1933年に、女子英学塾は「津田英学塾」に改称されました。