陰陽師「安倍晴明」と言えば、怨霊と闘い式神を使いこなす言わば「霊能者」のようなイメージで語り継がれています。
でも、本当の生涯はどのようなものだったのでしょうか?
史実に残っている活躍を調べてみました!
陰陽師「安倍晴明」の生涯
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史書への初登場は40歳
安倍晴明が歴史的な記録書に登場するのは、晴明が40歳の時のこと。
西暦で言えば961年のことでした。
晴明はその時、陰陽寮の天文博士・賀茂保憲の補佐をしていたと記録に残っています。
その時の晴明の役職は「天文得業生(てんもんとくごうしょう)」。
「得業生」というのは今でいう「奨学生」のことです。
晴明は陰陽寮の奨学生として、前年の火災で焼失してしまった「護身剣・破敵剣」というものを再鋳造する仕事を担当したと言います。
(※「護身剣・破敵剣」とは、天皇の身を護るとされた剣のことで、もともとは百済からもたらされた)
50歳で「天文博士」になる
歴史の記録に初登場してから約10年後のこと。
晴明は天文博士になったことが伝えられています。
そして当時の花山天皇から一条天皇の御世にかけて、陰陽師として大活躍し始めました。
この時期に、晴明は物の怪や怨霊を祓うための「祭」を多く行っています。
その中で「泰山府君祭」という祭は、中国の泰山に住む長寿の神様を祀った祭で、長寿を願って行うものです。
これは阿部家の陰陽道の最も重要な祭として、その後も行われつづけるようになりました。
74歳で「蔵人所陰陽師」に就任
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陰陽寮を引退した後、西暦995年に、晴明は天皇の指名で「蔵人所陰陽師」に就任しています。
この「蔵人所陰陽師」とは、天皇の個人的な占いをするために選ばれる陰陽師で、天皇からの信頼の篤いものにしかなれませんでした。
このことから、晴明がいかに陰陽師として信頼されていたかを知ることが出来ます。
85歳で亡くなるまで陰陽師現役を貫く
晴明は80歳を超えても陰陽師として活躍していたことが分かっています。
長保年間に一条天皇への日時勘申(日時の吉凶を占うこと)をしたり、貴族のために泰山府君祭を行ったということが記録に載っています。
晴明はこのように活躍し続けて、85歳の生涯を閉じました。
神様になった死後の晴明
安倍晴明が亡くなると、一条天皇はすぐに晴明を祭る神社を作るように命じました。
当時の平安京で、怨霊以外に神として祀られたのは、晴明以外にほとんどいないと言われています。
さて、その晴明を祀った「晴明神社」は、現在も京都市上京区の堀川一条に存在しています。
行ってみるとこじんまりとした印象ですが、建立当時はもっと広大な土地を占めていたそうです。
晴明の遺体は大雨で流出・・墓は行方不明に
一方晴明の遺体は、当時の五条橋(現在の五条橋とは違う場所)の中州に建てられていた法城寺という寺の境内に葬られたと言われています。
ところが法城寺も晴明の墓は洪水被害に遭い、遺体や墓は行方不明になってしまいます。
現在では、晴明の墓所として、嵐山にある長慶天皇陵の一角にある「晴明塚」が挙げられますが、これはいわば記念碑のようなもの。
遺骨や遺品などは納められていないのだそうです。
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この記事は、「陰陽道と平安京 安倍晴明の世界(淡交社)」を参考にまとめました。
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